「俺たち2」管理人による戯言
日記でもない、コラムでもない、単なる戯言。そんな感じ。
筆者は幕張ベイタウン在住のおやじ。結構、歳いってます。はい。
しばざ記
しばざ記(最新インデックス) しばざ記(INDEX-16)  しばざ記・ブログ版  俺たちのHP(パート2)

生涯一ドラマーを貫く ・・・ジミー竹内
脳梗塞で倒れ、リハビリをしている最中にジミーは引退を考えた。
しかし、引退コンサートを控えた2002年、再び倒れ・・・。


年が明けて、ここ2日間、夜中にジミーのCDを聴いている。

昨年の暮れ、といってもつい先日、ジミーが亡くなったことで、ご遺族はもちろんのこと、ご親戚、関係者、多くのお弟子さんやファンの皆さんにとって正月どころではなかったと思う。私とてついつい憂鬱になってしまう。朝晩、妻にジミーの思い出話をする。一日に何度もジミーの顔を思い浮かべてしまう。それほどまでに私の人生にとって大きな存在の人だったとは自分自身でも意外だった。だが、一方で心痛な面持ちでいることが果たしてジミーが望んでいることなのだろうか、ということも考える。

2010.1.3

▲このページの先頭へ



ジミーがWikipediaに・・・

生前、ジミーはWikiに掲載されなかった。
今、見たら、なんと、新しい項目ということでUPされていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E7%AB%B9%E5%86%85

Wikiは、ジミーのファンの方がアップしてくださったのだろうか。あるいはお弟子さんだろうか。有り難いことだ。

そういえば、Wikiにも書いてある通り、ジミーはナベプロの創始者である渡辺晋さんのバンド(シックス・ジョーンズ)にもいたことがあるのだ。ナベプロと縁が深いのはその辺りがルーツなのだ。それから、ちょっと間違っているのは、Wikiでは2002年に引退コンサートをやったとなっているが、2度目の脳梗塞で倒れた為に、各地で開催される予定は全てキャンセルされた。本来ならば、ベイタウンで予定されていた「プレ引退コンサート」がその引退コンサートツアーの皮切りだった。引退コンサートを結果的にやらなかったのが幸いだったのか、ジミーは生涯現役でいることが出来た。

一時期、ジミーがとても弱気になっていて、「皆さんの前で、みっともないドラムを聴かせたくない。だから引退する。」ということを口にしていた。ところが2度目の脳梗塞のリハビリを続けながら、「最近、手足が思うように動かなくなってきてから、逆に以前できなかったことが出来るようになった。」と言っていた。そしてむしろどんどん機会があればライブをやりたいという欲が出てきた。「生涯一ドラマーだよ。」とジミーは熱く語っていた。



ジミーの長年の友人Nさんが手にしているのは、「ジミーズ・ジャズ・ショップ」という名盤。ドラム・ドラム・ドラム・シリーズの10周年記念盤。松本英彦、世良譲、稲葉国光、横内章次、フランキー堺、etcという当時のトップアーティストが参加している。CD化されなかったのが残念。



ジミーの「ドラム・ドラム・ドラム」シリーズは大抵、色っぽいジャケが多いのだが、このアルバムは渋い。各アーティストがちゃんとアーティストという顔で写っている。フランキー堺なんて、超かっちょいい。(自慢じゃないけれど、私はフランキー堺のナマの演奏を聴いたことがある。)

2010.1.3

▲このページの先頭へ



バディリッチと


バディ・リッチといえば、スウィング、バップの時代のトップドラマー。今でも神とあがめている人は多い。生前のジミーも彼のことを絶賛していた。あまり謙遜しないジミー(笑)にしては珍しく、バディ・リッチのことになると、あんなふうには出来ない、ということを言っていた。でも、「日本であんな風に叩けるドラマーは俺しかいない。」というようなことも言ってたなあ。(笑)

http://listen.jp/store/artist_18144.htm

2010.1.3


追記

夕刻、ダイソーに息子がクリアファイルを買いに行くのでつきあった。何気なくCDコーナーを眺めていたら、テディ・ウィルソンも、バディ・リッチもあった。で、買ってしまう。315円。

2010年1月 3日 (日) 23時14分

*    *    *


うわ。
今、値段を再度見たら、な、なんと、210円。

脅威ですな。

2010年1月 3日 (日) 23時20分

*    *    *


そういえば、ブルーベックトリオのジョー・モレロdsともアメリカのモレロ宅まで遊びに行った位親交があったと聞いた事があります。モレロさんにも知らせてあげたいトコですね。

(ジョー・モレロは未だ現役で、drummerworldというサイトなどでは「コレが80近い爺さまのドラムか!」と驚くようなドラミングが見れます。
http://www.drummerworld.com/Videos/joemorelloplay.html

投稿: Aきやま@山猫軒 | 2010年1月 4日 (月) 10時01分

*    *    *


Aきやま@山猫軒さま

ジョーモレロさんとの親交は知りませんでしたが、でも十分ありえますよね。教えて頂いたURL、見ました。たいしたもんですよね。(感動)

2010年1月 4日 (月) 10時38分

▲このページの先頭へ



今夜はジミー竹内の通夜です

先にも書きましたが、本日午後6時より、コムウェルホール高円寺にて偉大なドラマー、ジミー竹内の通夜が執り行われます。

コムウェルホール高円寺:
http://kouenji.comwellceremony.co.jp/

会場にはジミー愛用のドラムセットが飾られます。
私の撮った写真も飾ってくださるそうです。
ありがたや〜。


上の写真は、「ドラム・ドラム・ドラム」シリーズのキャンペーンカーです。これに乗って(もちろん運転手付き)、全国津々浦々をジミーは回っていたようです。地方のレコード店に同シリーズのポスターや吊り看板などが掲げてある写真もあります。おそらく、今でいうところのインストアライブならぬ、サイン会のようなことをやっていたんでしょうね。もちろん、地方公演もたくさんありました。

ドラマーという本来は縁の下の力持ちみたいなポジションのジミーが、全国に名を馳せ、同シリーズ通算の売り上げが大物歌手並みに何十万枚(ミリオンに迫る)売れたのは、異例のことです。今の世の中、人気歌手のCDだってそんなに売れない時代。ドラマーのリーダーアルバムがそんなに売れるなんて信じられないですよね。 一説によるとそのお陰で東芝EMIのビルがひとつ建ったと言われてます。当然、同社からの感謝状に加え、大きな楯(右上の写真/ちょっとピンボケになってしまったので、シャープネスをかけてます。)もあります。

2010.1.4 午前2時

▲このページの先頭へ



クルマ好きなジミーだから

ジミーのクルマ好きは以前もここに書いた通り。次々に色々なクルマに乗り換えていた。私がしばしばジミーのライブに行っていた頃、ジミーは大型のダッヂステーションワゴンに乗っていた。ジミーが59歳から63歳くらいじゃなかったかな。そのときの運転手はNさんだったかな。自分でも運転してきて、池袋のメトロポリタンや浅草ビューホテル、あるいは六本木のバードランド、銀座スウィングのライブの時に時々そのクルマを見かけた。そのクルマを所有しているときにも同時にスポーツカーみたいなものに乗っていたのを薄っすらと覚えている。

その以前は凄かったらしい。娘の美佐子さんの証言によると、酷いときは3ヶ月ごとに乗り換えていたという。でも、単に流行のクルマや、単に高級車を買うわけじゃない。当時(昭和の時代)のお金持ちの象徴だったベンツも乗ってはいたけれど、でも、日本ではあんまり見かけないような、要するにレアなクルマを買って、美佐子さんを助手席に乗せてドライブしていたという。時には愛人さんも(おっと)・・・。それは内緒。

そのクルマ好きがゆえにジミーが一番お弟子さんやボーヤさんを怒ったのが、クルマのこと。先日酒席で一緒だったボーヤさんもシミジミと言っていた。
「ジミー先生は、私がクルマを運転しているときに、後ろの席でバカだチョンだとかなり怒ってました。『そんな曲がり方するんじゃないよ!』とか、『もっとスピード出せよ!』とか、『バカ!』なんてしょっちゅうでしたね。ほかのミュージシャンと話しているときも、『あいつはクルマをぶつけてばかりいる。本当にヘタクソだ。』と言うんですよ。私は慣れっこですけどね。」

それでも昔のボーヤさんはジミーのことを愛している。憎ったらしいけれど、やんちゃなところが可愛いのだ。


上は、なんという名前のクルマだったっけ。前から乗るのだ。ボンネットを開いて乗るようなイメージ。やはり美佐子さんを乗せて走ったらしい。ジミーはクルマと美佐子さんが一番の自慢だったのだ。

2010.1.4





▲このページの先頭へ



通夜に行ってきました


もうこんな時刻(0:15 AM)だ。ジミーにお別れを言って会場を出た後、せっかくなので、昔の思い出がある高円寺をぶらついてきた。通夜は賑やかで楽しかった。そういう言い方をすると語弊があるけれど、でも、きっとジミーさんも喜んでいるに違いない。新宿で教室を開いていた頃のお弟子さん達がジミーさんの昔話をして盛り上がっていた。私もその中に混ぜてもらった。かつてのお弟子さんは殆ど今も現役でドラムを叩いている。あちこちのライブハウスなどで活躍されている。

会場の入り口ホールにはドラムセットが置いてあった。Nさんが早くに会場入りをしてセットしたものだ。ジミーのステージ衣装も飾られていた。また、お清め処にはジミーさんの元気だった頃のビデオが流れていた。1992年の広島のホテルで演奏したものだ。トランペットが神村さん、ピアノは栗本だ。テイクファイブの長いドラムソロもあったし、例の途中でブレイクした後に、にやりと笑うパフォーマンスもあった。


列席者はさすがというか一流のミュージシャンや音楽関係者が多く来られていた。神村英男(tp)、伊藤潮(b)、栗本修(pf)、各氏も来られた。潮さんとはもう何年ぶりだろうか。両国のYさんともお会いすることも出来た。

2010.1.5






▲このページの先頭へ



高円寺


昨夜の通夜の会場は地下鉄東高円寺の駅を降り、環七を渡ったところだった。高円寺というとまず最初に吉田拓郎を思い浮かべる。ライブハウスの次郎吉。紳士服のミナミ。桃太郎寿司。パチンコ屋。こんにゃくがいっぱい入った立ち食いそば屋の牛丼。それから8月の終わりの阿波踊り。

その昔、私が阿佐ヶ谷で学生の真似事をしながら暮らしていたときに、真面目に勉強していた村上という友人が高円寺に住んでいた。高円寺といっても正確には高円寺南5丁目で、駅から降りて線路沿いを東の方角(中野方面)へかなり歩く。環七を渡り、ちょっと奥まった小さなアパートだった。彼は私から見るととても器用で時々自炊もしていて、腹が減ったときには何か食べさせてくれた。

その彼のアパートに行く時に必ず環七をまたぐ歩道橋を渡る。西側の階段の登り口に割合大きな風呂屋があり、時々その風呂屋に一緒に行ったこともある。今はビルになり、一階がコンビニ、二階がサウナになっている。夜とぼとぼと環七を渡る。南のほうを眺めると、秋田の銘酒「美酒 爛漫」のネオンサインの看板が。あれからもう三十年経った。たまに中央線沿線に用事があるときに電車の窓からその歩道橋を見たことがある。昨夜はその歩道橋を渡った。

写真は三脚が無いので、歩道橋の欄干にカメラを置いて撮影。
そうだ、あの爛漫の看板の下辺りにラーメン屋があって、何度か行ったっけ。

2010.1.5

▲このページの先頭へ



ジミー竹内先生を偲ぶ会

色々な方々からお問い合わせ頂きました。有難うございます。現在、Nさん(以降ゴリさんと呼びます)と私の間で開催日程、開催場所について協議中です。心待ちにされておられる方は多いですが、近々ですとご遺族の方々もお疲れになっておりますので、いっそ落ち着いてからということにしたいとゴリさんはおっしゃってました。6月がジミーさんの誕生日なので、6月開催がよいかもしれません。

ところで、今後のイベントに関する情報や、また、過去の演奏の音源、また膨大な写真を掲載するホームページ(ジミー竹内オフィシャルサイト)を立ち上げようと思っております。一応不肖私めが担当させて頂きますが、ほかに適任の方々がいらっしゃれば、立候補してください。私はどうしても仕事の合間にしか制作が出来ないので、かなりのスローペースになりそうです。予めご了解ください。


またちょこちょこと写真をアップします。この方(上の写真)は、九重祐美子さんです。可愛いですね。ジミーさんも嬉しそうです。九重さん、顔立ちから判断してちょうど「コメットさん」をやっておられた頃でしょうか。い、いや、それよりもっと大人になってからかな。

全然話が違いますが、「コメットさん」のパロディ版のショートフィルムをつくったことがあります。脚本は私です。絵コンテなどは仲間のアートデザイナーがつくりました。撮影はTBS系の元カメラマン志望が務めました。「コメントさん」というタイトルで、やたらにすぐにコメントしたがる男(評論家)の話です。残念ながら、やっているうちに馬鹿馬鹿しくなってしまったのと、もっとほかに楽しいことがあるんじゃないかと思って中断しましたが、出来ているだけでも試写会をやったことがあります。


上の左側は、作曲家の浜口庫之介さんですね。ラジオ局のスタジオでしょうか。
右はお馴染み永六輔とのツーショット。永六輔さんとジミーは色々仕事で絡んでましたね。私が最後に二人を一緒に見たのは品川パシフィックホテルで開催されたジミーの還暦祝いパーティーでした。あの頃はアンリ菅野さんもお元気だった。


左の写真のジミーはめちゃ若いですね。お隣の方は、たぶんあの人なんでしょうけれど、間違っていたら申し訳ないので、確認が取れるまではお名前は伏せておきます。右側の写真の一番右はご存知の通り世良譲さんですね。このくらいの年代のときは、結構ジミーのライブに通ってましたんで、一番見慣れた雰囲気です。

2010.1.5

▲このページの先頭へ



告別式リポート

一昨日の1月5日はジミーさんの告別式だった。私はどうしても外せない仕事が入っていて、列席が出来なかった。断腸の思いだった。お弟子さんのドラマーの梅田さんからメールを頂戴した。一緒にお通夜のときお手伝いしてくださった方だ。また、やはり同じくお手伝いしてくださった古いお弟子さんのひとりKazuco Sanoさんからリポートを頂戴した。ここに掲載したいと思う。以下。



お通夜である昨日に引き続き、寒いながらも良い天気に恵まれた。
朝9時から9時半頃までに、昨日と同じスタッフの面々と
今日新たに加わって下さった方も含め、会計、受付、案内などの配置に着いた。

10時頃から続々と弔問の方々が 訪れた。
往年のドラマ−・・・・もちろん現役のドラマーも、
私が ヤマハでお世話に成った猪俣先生、
何回かライブに伺ったこともある、サバさん。
ひときわ大きくて目立った、つのだ☆ひろさん
原信夫さんの奥様も見えた。

そんな大物の方々のご弔問を受け、
改めてジミーさんの偉大さとお人柄が 忍ばれた。

古参の元ぼーや、Nさんは 昨日と同じ、
他のスタッフとは 余り話さず、じっと入り口近くで構え、
時々順路を 間違って入ってきた方に記帳場所へと誘導していた。
その他は 外をながめ、気を紛らわせているように見えた。

お焼香には 二手に分かれて行かせて頂き、
いよいよお別れと言うときも、スタッフも交代でお棺に花を 
入れさせて頂いた。
お顔の近くに立派な胡蝶蘭を 飾らせて頂いたが
弟子の中でも古参の部類の私には やせ細ったお顔には
教えて頂いていた頃の面影は 無かった。

20年前から亡くなる直前まで交流の有った清家さんは 
先生の好物の[たこやき]を 朝焼いて来て、お棺に入れさせて頂いていた。
新宿に有った教室に通っていたと言う彼女は
近くのたこやき屋さんにしょっちゅう買いに行かされ、
その魅力にとりつかれ、自身が たこ焼き屋さんに成ってしまったとか・・・・

私も斎場の方へ伺い、最後までお見送りしたかったが
ご家族だけでとのご意向だったので、私たち弟子は 遠慮させて頂いた。
その代わりと言っては 何だが 近くでお清めをし、親睦を 深めた。

メンツは 梅田さん、枝川さん、荒井さん、土田さん、後藤さん、
市井さん、清家さん、清家さんのファンクラブ会長萩原さん、
元ぼーやの山本さん、そして私である。
ここに柴崎さんが 居たらね〜とみんなとても残念がっていた。

それぞれ年齢やジミーさんと関わったのは まちまちだが
エピソードは 底知れず、笑いが絶えなかった。

♪〜 Kazuco Sano 〜♪




尚、Kazuco Sanoさんとメールでお話されたい方は、私経由でお取次ぎしますので、私宛にメールをください。私のメールアドレスは、shibazax@nifty.com (←コピーする場合は@を小文字にしてください。)です。それから、昨夜も色々メールをくださったジミーファンの皆様有難うございました。出来る限り個別に返信させて頂いてますが、キャパオーバーで返信が大幅に遅れた場合はご容赦ください。

2010.1.7

*    *    *


[コメント]


はじめまして。
ジミー竹内さんの訃報を知り、こちらのブログを拝見させていだだきました。

ジミーさんとは、10年ちょっと前の自分が20歳ぐらいの時でジミーさんが脳梗塞になる1年ほど前にあるライブでお会いしたことがあります。
実はジミーさんは自分の父と奥田宗宏&ブルースカイオーケストラや日劇時代の同期でして、そのつながりでお相手をしていただくことができました。

またお会いしたいと思ってましたが、ライブでもなければそのような機会もなく、今はどうされてるのだろうと思い検索したらこの訃報にあたりました。

投稿: 昇り龍 | 2010年1月 8日 (金) 03時03分

*    *    *


昇り龍さん

メッセージ有難うございます。
そうでしたか。お父上様と繋がりがあったのですね。これを機に今後ともよろしくお願いいたします。

奥田宗宏とブルー・スカイ・ダンス・オーケストラについては勉強不足であまり詳しくないですが、ずいぶんと歴史があるバンドなのですね。

Zaki

▲このページの先頭へ



2010/1/7
しばざ記 787
最新の「しばざ記」はブログのほうを見てください。


<<< 前の記事
しばざ記(INDEX-16)
次の記事 >>>


俺達のホームページ ベイタウン・ミュージック・フェスタ ベイタウン旅行倶楽部 幕張食べ歩き 茂野麺紀行 神田まつや お薦めライブ
俺達のホームページ・パート2